生命の起源フォーラム (ORIGINS OF LIFE FORUM) - Re: 単細胞生物と多細胞生物 -システム相同か?- (Multicellular organism and Unicelluar organism -Homologous systems?- - Subject 議題 - LIFE-Forum (LIFE交流広場)
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ohnishi

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2012/3/2 21:52 | 最終変更
ohnishi  新米   投稿数: 1
 単細胞生物が先に生じて、さらに単細胞性単相真核生物が進化したと考えられます。倍数性(=複相)単細胞生物の出現は、単相単細胞生物の近縁2個体の協力行動の結果としての近縁2個体共生体の創生であったと考えられます。2個体協力行動の在り方としては、(ハミルトンの近縁選択による)近縁2個体の協力行動としての2個体融合や(ファゴサイトーシスによる近縁者の)共食いなどの説(後者はマーギュリス説)がありますが、結果的には何らかの形での近縁2個体融合と、減数分裂による元の単相単細胞個体への回帰によるライフサイクルが構築されたと考えられます。減数分裂中期における相同染色体の対合は、協力すべきパートナーの近縁性認識行動として解釈可能です(Origin Life Evol.Biosph. 26: 499-500,1996). 相同染色体対合・分離が可能な範囲の近縁個体同士の2個体融合でなければ正常な単相個体に戻れず、それまでの複相協力行動=2個体協力行動を(結果的に)チャラにするのです。ですから、単細胞性真正細菌としての単細胞個体は、単相単細胞真核生物個体との間にシステムとしての相同性があります。また、複相単細胞生物のライフサイクルにおける単相世代個体が細菌個体とシステム相同です。複相多細胞動物の複相多細胞世代は、複相単細胞生物の複相世代が二次的に(従って、時代的に遅れて)多細胞化したものですから、その複相多細胞個体の体細胞や生殖原細胞(2n)は起源的には複相単細胞生物の複相世代の単細胞個体とシステム相同であって、単相世代の単細胞個体とは直接的にシステム相同ではありません。多細胞動物の単相世代は、単細胞個体性を維持していて、卵や精子は単相単細胞真核生物個体とシステム相同です。その意味において、ヒトはレッキとした単細胞鞭毛虫の一種なのです。卵は2次的に鞭毛を失っているだけです。ただ、複相世代が複雑多様に進化して、単細胞鞭毛虫であることが見えにくくなっているだけの事です。
 ここのところは、ニュートン力学が物体の運動を質点の運動にまて簡単なシステムとして簡略化して本質を捉えたように、ヒトのような複雑な生物個体をそのまま単細胞生物個体と比較するのではなく、ヒトのライフサイクルのうちの最もエッセンシャルな部分としての単相世代個体をヒトという鞭毛虫の本来の個体の生きた姿として、そこから変形したライフサイクルをもつ生物としてヒトを眺めることによって、ヒトを、「細菌からヒトにまで通用する生物学の第1法則としての、単相単細胞個体としてのヒトの本来の姿」 がすっきりと見えるのではないでしょうか? ニュートンがシステムの本質を見抜いて、余分なものを捨て去って第1法則をえぐり出したように、我われもまた、ヒトの余分なものを捨てて、単細胞鞭毛虫としてのヒトの姿に焦点をあわせれば、「細胞の起源以降の一般生命法則としての、生命の第1法則」 はすぐ目の前に見えているのだと思います。
 人間中心主義の伝統的生物学の目が、私たちの生物を見る目を曇らせているだけのことでしょう。科学における新しい視点の認識は、視点を変えることで容易に到達出来る場合が少なくないように思われます。科学史を遡ると、日常的に慣れ親しんだ見方について、「視点を変える」という 「常識の放棄」 こそが科学革命の最重要部分としての要なのでしょう。
 ニュートンが常識を捨て去って「リンゴが落ちる」のを不思議に思ったように、また、アインシュタインが「直線のモデルとしての光の経路」の常識を疑ったように、私たちも 「ヒトは多細胞生物である」 とか、「ヒトは複相生物個体として生きている」 という常識をかなぐり捨てて、「ヒトは単相単細胞生物として生きている」 という、バクテリア以来の伝統的生きざまの、ありのままの姿を直視しようではありませんか。丁度、ニュートンが複雑なリンゴの実の落下を、質点の落下とみなしたように。 すると、飯田さんの疑問、「単細胞生物と多細胞生物はシステム相同か?」 に対する答えは、私たちのすぐ目の前に、明解に横たわっているのが見えると思います。1665年のフックの細胞の発見以来の生物学の営みが、回答のために必要なデータを全て揃えてくれてあって、分子生物学の勃興以前の段階で回答のための素材は既に完備していたのです。ただ、生物学者や科学者の目が、人間中心主義、多細胞生物中心主義、複相生物中心主義の、アリストテレス以来の旧来の伝統的生物学の目で曇らせられていて、人間や多細胞生物や複相生物の目でしか生命界を見ていなかったのです。歴史は過去から未来へと一方向的に、因果関係に従って流れますから、因果関係を見やすい形で客観的に見るには、過去から現在や未来を見るのが、因果関係の効率的発見を容易にします。人間中心主義や複相生物中心主義では、現在から過去を、時間と逆方向に見てしまうので、因果関係に沿った論理思考がなかなか難しくなってしまうのです。
 その意味で、単相単細胞生物個体としての細菌(バクテリア)の目で、未来としての複相単細胞生物や複相多細胞生物を眺めるという、「細菌の目」を我われが持つことが、飯田さんの疑問や質問に対する答えの、迅速かつ容易で明解な発見に繋がげるための早道だと思います。視点の転換(=パラダイム転換)は、新しい視点を創りだすまでもなく、私たちが素直に、私たち自身である鞭毛虫の1種として思考すればよいだけの事です。私たちは皆んな「単細胞」なのです。「単細胞」こそが偉大であって、人間科学の最先端ナノバイオロジーは単細胞生物個体が何十億年も前に開発したナノテクノロジーのほんの端くれの理解にさえも及んでいない程度なのです。
 多細胞生物の複相世代個体と単細胞細菌個体(または単細胞真核生物単相個体)をシステムとして相同性に関して比較しますと、前者は個体性の2段階の階層的発展を経た、二段階上位の個体であると言えます。前者の構築要素としての複相細胞は、本来的には複相単細胞真核生物の複相個体とシステム相同で、それは、単相単細胞真核生物の、近縁2個体協力行動複合体とシステム相同であると言えます。初期の2個体複合体は、相同染色体の緩い接近と分離による緩い2個体共生体であった可能性が高いと思われますが、殆どの現生複相細胞では、2個体が融合して、染色体やDNAの相互交換過程を含み、2個体共生体としての複相細胞を、本来の2個体のそれぞれの領域に2分するような細胞内における境界曲面は消失し、実際、減数分裂で回帰した単相単細胞個体は、融合(接合または受精)前の2個体のもつ成分が部分交換されたり混ざったりしていて、そのように混ざり合う結果こそが次世代の新たな遺伝的形質とその適応的進化や適応的自然選択を保証するものとなっているのです。
 私は、これらの諸過程が、単なる受身的自然選択のみで進化したとする「総合説」的な説明は極めて不完全で、生物自身が自己改良可能な能動的認知系としての学習ニューラルネット機械として起源し、その認知機械としての能動的認知能が深く関与する形で、生命は認知的・能動的に起源・進化したのだと考えています(Viva Origino, 30:63-78, 2002; Artif.Life Robotics, 16: 448-454, 2012)。 ですから、生命の定義の本質部分には(広い意味での)「認知系」としての性質が必須であって、ミラー以来の生命起源学が、今日まで無関心であった側面であり、21世紀の生命起源学は、「如何にして最小認知系が創成し得るか?」という、より本質的な課題に挑戦しない限り、生命起源学の本質的発展は望めそうにないことは、既にほぼ明白であろうと思われます。前記のArtif.Life Robotics(2012)はこの点を議論しています。
以上が、飯田さんの疑問に対する私の現在の意見です。

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