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飯田一浩さんの "Re: A Worm's eye perspective" (11/5) へ;
松野孝一郎より
>「飽きることのない先送り」というのは,とても良くわかります.:)
>わかった上で,しかし,これは漸近,最適化,近似といったことに
>対応する事柄であって,
関心事は、説明ではなく、記述です。
>1.人間の認識過程に由来するのではないでしょうか?
ここでの問題点は、運動(あるいは、変化)を記述するのに、いず
れの記述形式から出発するか;完了形から、現在形から、はたまた
進行形から、のいずれからか、です。これは選択の問題です。(現
在形は進行形の近似でもなく、またその逆でもない。)
現在形から出発する、と一度決心しますと、それから進行形を導
くことは難しくはありません。(”転がる玉がある”から”玉が転
がりつつある”は難無く導ける。)一方、進行形から出発する、と
決心したときには、それから直ちに現在形を導けるかどうかは分か
りません。(”ご飯を食べながらテレビを見る”を”ご飯を食べ
る。テレビを見る”にどう接続するかは、哲学者にとっての難問)
>2.自然界を構成する要素の全てが,相互作用する相手の動きに漸近
> するような性質を持っているとは思えないからです.
進行形で運動を記述しようとしますと、主語に二つ以上の述語が着
きまとう事態を避けることが出来なくなります。その述語間での矛
盾をどのようにして回避するかは、進行形に加担する側にとっての
(私を含む)大問題。現在形から出発する場合には、この種の難題
は一切なし。
>その辺が,私が部分の視点に踏み込めない理由の一つです.
卓見です。(皮肉ではありません。)
># もう一つの理由は,全体の視点で書かれた解析技術などの
># 蓄積が利用できるのか否かが見えないからです.
進行形から出発しますと、事態はやがて完了形に接続して行きます。
完了形で記述される記録には、記録全体を一望できるとする”全体の
視点”が確保されます。(ただし、完了形が自然に進行形に接続して
行くか否かは、不明)
松野孝一郎
転送させていただきました.(運営)
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