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生命の起源 #294 : LIFE Mailinglist Archive for the Origins of Life study
LIFE Mailinglist Archive for the Origins of Life Study

ID
294
DATE
10/28/1997 06:22:11 AM
TITLE
[life:000294] Re: E-Cell
AUTHOR
"KOUICHI Takahashi-S" <t94249kt@***.***>
BODY


高橋です。

# 非常に楽しく有意義な議論をさせていただいていると感じる
# 一方で、本来飯田さんが意図されている議論の筋から離れて
# しまっている感じもして恐縮なのですが、、


| > | 飯田:オートポイエシス的視点は,部分と全体という視点を嫌う,
| > |    そのよう_*I_糧__$B$B;kE@$r@_$1$k$3$H<+BN$,!$4V0c$$$r=uD9$7$F$$$k_*B
| > |    という意味ですね?
| >
| > ええ、この事に関してはevolveでも書かせていただいたとおり:
| >
| > ========== begin citation [evolve:3061]
| > 彼等がAutopoiesis論を提案したときに強調した「新しい物の見方」
| > の一つに、系を環境との関係で語るのではなく、また観測者の認識主観との
| > 関わりで語るのでもなく、純粋にその系をその作動を記述することで
| > 定義しよう、ということがあります。つまり、環境や、観察者も
| > 包含して記述した言明は対象となるシステムMについて議論しているのではなく
| > 環境や観察者も含んだ大きなシステムM'について語っているわけで、
| > 結合線型性が保証されない生命等のシステムについて語る場合には
| > これは致命的な範疇誤謬に繋がります。彼等はこれは避けたいということを
| > はっきりと言っています。
| > だから、本来はautopoiesis論は主観依存的な理論ではありません。
| > ========== end
| >
| > 主観、客観の議論を排したのみならず、部分と全体の二項対立も
| > 問題視しているわけです。
| > ただし、単位体を設定するからには位相的にせよ時空間的にせよ
| > 議論の対象とする系とそれ以外を区別することから議論が
| > 始まることは否定できません。
| > そこで強調すべきは、提唱者の言葉を借りると、
| >
| > 「説明はいつも現象の再構成であり、現象の構成素が相互作用と関係
| > によってどのようにして現象を生じさせるかを示すことである。しかも説明
| > はいつも私たち観察者によってあたえられる。だからシステムに帰属する
| > 構成的な現象と、私たちの記述領域つまりシステムと観察者との
| > 相互作用に帰属する現象とを明確に区別すること、言い換えればシステムの
| > 構成素と、それが観察されるコンテキストを明確に区別することがとても
| > 大切」(出典:オートポイエーシス/マトゥラーナ、ヴァレラ 河本英夫訳)
| >
| > であるということになります。

| おっしゃる意味はわかります.でも,システムの構成要素と,それが観察される
| コンテキストを区別することって,観察という概念を入れた段階で,部分と
| 全体の議論になりませんか?

これは何らかの誤解とおもわれます。
上の文のいいたいことは、
「系を環境との関係で語るのではなく、また観測者の認識主観との
関わりで語るのでもなく、純粋にその系をその作動により記述することで
単位体を定義しよう」という一文に集約されます。

これは松野先生の言われる「虫の視点」にも通ずるところがあるとおもいます。
ただし、「虫の視点」の場合は個々のパースペクティブからの
視野の総合、集約により何らかの鳥瞰図を得て、全体系に関する
物理的情報を得ようとするところまで念頭に置かれているのに
対して、オートポイエティックな視点は単位体そのものの作動原理
を明らかにすることのみに注意がいっている点が異なります。


| 部分や全体の視点,内側その外側という概念を「越える」のでなく,
| むしろ,自分が対象にしている事柄が,部分の視点で捉えられている
| のか,全体の視点で捉えられているのかを,常に意識しながら議論
| することの方が,ロジックのミスが少ないと思います.
|
| 私の現在の心境:
|
| オートポイエシスの視点は,物理モデルを書く立場からは
| 「それほど価値あるものに見えません.」

確かに現時点では理論的不備に起因してそういう面もあるとおもいます。
それは認めざるを得ません。
しかし、その御指摘は的を外している面もあります:


| まず,次の二つの問いに答えて下さい.
|
| Q1.オートポイエシスの見方でなければ説明不可能な現象があるか?

この問いはベルタランフィーが一般システム理論を提唱して以来、
あるいはその先駆者たちがシステム論の基礎となる考え方を表明した時以来
現代にいたるまで何度となく繰りかえされてきた批判です。
例えば一般システム理論が拠所としている同形性理論や還元不能性は
1940年代以前から特に風当たりが強かったところで、数十年かかって
やっと理解されたという経緯があります。ベルタランフィーの
言葉を借りればこのような批判は「システム理論が本来主張しようと
している要点を見失っている」のです。

まず、オートポイエーシス論が対象としているのは物理的現象そのもの
ではありません。そうではなくて、物理的(あるいは非物理的)
現象群をひとつのまとまりとして組織化し、生命の有機構成を可能に
している「しくみ」「なりたち」です。これはライプニッツに始まり
全てのシステム論についていえることだとおもいます。そして、
この「しくみ」「なりたち」の理解を抜きにした現象論のみでは
決して対象を理解したことにはならない、ということがこれまで
システム論を成立させてきた根本的なテーゼです。

したがって、システム論、特に自己組織化システムや
オートポイエティックシステムの場合は物理的な空間、時間を
直接は扱いません。何らかの関係性のネットワークから成立する
位相的な空間、特にオートポイエーシス論の場合は産出関係の
ネットワークにより現前するオートポイエーシス空間での現象に
注目し、この空間において一般的に不変な構造を扱うのであって、
物理的な時空間において不変な構造を扱うのではありません。
生命をオートポイエーシス論により扱うことの利点の一つは
この点にあります。物理的な現象は生命という切り口
から見た場合時空間的に不変な構造を見い出し難いのに対し
(これが物理学が生命を扱うことを難しくしていた要因の一つ
のようにおもいます)、このような位相空間では生命は
その定義により不変な構造として扱われます。
前にも述べました通り前者は後者に対して影や波のような存在であり、
相互にパラレルのものといっていいとおもいます。


「オートポイエシスの見方でなければ説明不可能な現象があるか?」
という問を生命に関して考えてみますと、これは微妙なところです。
説明可能ということが、「細胞を構成する原子あるいは素粒子の全ての
位置と運動量を得て、連立微分方程式(多体問題)を何らかの方法で積分
することで時間的な推移を予測する」ということを含むのであれば、
もしそのようなことが可能であれば(統計力学を使えるのであれば
望みはもちろんありますが)、「オートポイエシスの見方でなければ
説明不可能な現象」はないといえるとおもいます。
ただし、もしそうだとしても、現象の説明と対象の理解は異なります。
僕は、上記のような方法論によって得られる知見から生命システムに
関する本質的理解が得られるとは考えません。

そこで、前後しますが以下の文に関していいますと、

| 私は,部分系とは,全体の中で特定の条件を満たす部分だと思って
| 形式的に,
| $ D = {r | Psi[r; ho] >0 } $
| Dは,システムの存在領域,
| $Psi$は,検出条件を代表する実関数(言い換えれば観測装置),
| $ ho$は,全系の振る舞いを決める統計量
| と書いております.
| これは,対象物(ここでは$ ho$に由来する物理量の分布)
| と観察のコンテキスト(ここでは,$Psi[]が代表)を,
| あからさまに分けることに相当すると思います.
| でも,この書き方は,明らかに全体と部分という視点に立っています.

このような定式化が「現象論」の典型的なものであり、対象系の
検出を現象の観測に頼っており、系の動作そのものの説明には触れていません。
システム論的な定式化の一般的なやり方を示すとすると、例えば
ベルタランフィー流でいくと、有限個の要素$P_i$における測度$Q_i$
に関して

frac{dQ_1}{dt} = f_1(Q_1,Q_2,cdots,Q_n)
frac{dQ_2}{dt} = f_2(Q_1,Q_2,cdots,Q_n)
cdots
frac{dQ_n}{dt} = f_n(Q_1,Q_2,cdots,Q_n)

とE-Cell的に古典的な連立微分方程式で記述することができますし、
# 古典的というのは要素間の関係が固定されているということです
オートポイエーシス論の定式化はまだこれといったものは
ありませんが、例えば河本英夫氏によると、

f(□、□、□、、)

として系を記述できます。f()は系の動作原理で、□は
あらかじめ決定しているのではなくシステムの作動により
はじめて獲得される変数群であり、自分自身の構造を含みます。

まず前者は系をそれそのものの動作によってのみ説明できていますし、
後者はさらに自分自身の位相的配置、構成も自分自身で規定できています。


念のため誤解のありませんように付記しますと、現象論が何も説明できない
無用のもので、システム論的理解のみが真理に到達できるなどという
宗教のようなことをいっているつもりは毛頭ありませんで、
(そんなこといったら自然科学自体を否定することになります)
注目している定式化の仕方、目的が全く異なるものだということです。


| Q2.全体の視点のモデル無しに,オートポイエシス的見地から
|    定量的デルが書けるか?

上述の諸理由により現時点では無理だとおもいます。
ですから、生命の現象論を主眼点としているこのスレッドでは
この議論に構わず先にいってもらって全く構いません。

ただし、オートポイエーシス論を発展させることで
生命の明示的な(検証可能な)モデルを組もうという試みは
僕のほかLIFEにも参加しているはずの友人をはじめいたるところで
行われているはずです。



慶應義塾大学s 環境情報学部 (Bioinformatics Lab.) ‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾‾
高橋 恒一
_____Kouichi Takahashi t94249kt@***.*** _______


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